昭和41年09月05日 夜の御理解
今朝、朝の御祈念にお参りしておられたが、御祈念中に御神願に頂いておられるのが、奉るという字を書いてある。その下にこの例えば御と言う字ですね。例えば御はなむけとか。御年玉とかいうあの御と言う字ですね。御と言う字のその行人偏のないところを、御の字を下に書いてあったという訳なんです。次には私と、秋永先生が控えにおってから、二人こう机を挟んで向き合ってる。
いっぱいその汗をかいておる。それで繁雄さんは、下へ降りてから、お絞りでもあげよと思うて、そのお絞りを取りに言った所。そう言う様な情景を頂いたとこう言う。そすと、どういう風なことだろうかと。皆さんどういう風に感じられますでしょうか。あの京都の有名な知恩院が建立されます時に、どうしてもあの大きな棟が上がらなかったと言う事ですね。そこでその一番偉いお坊様に、その事をお伺いを立てられた所が、沢山な人の女の一念を以って、その祈願を込めたら良かろうと言う事であった。
それであの当時の日本中の、日本中ち言うと私は分かりませんけれど、とにかく沢山の、まぁ信奉者は殆ど、全国でございましょうからね。あの婦人の方達がこの緑の、いわゆる黒髪を切って供えたんです。でそれであの大きな縄を作って、それを皆で引いて上げたという。そしたら難なく棟が上がったという、まぁお話が残っておりますようですね。私は思うんですけれども、本当に私あの椛目の御造営の場合なんかは、行くたんびに思うんです。とてもとても私共の信心で、また椛目のお互いの信心でです。
あぁ言う様なものが出来る、出来ていきよると言う事が、もう、不思議で不思議でたんまらんです。もうどんなに考えても、どんなにそろばん持ってみてもね。もうどんなにそろばん持ってみてもです。どんなに考えたって出来るはずはないです。今のこ椛目のいうなら実力と言うものもないですけども、実力と言う事にすれば。ところがですねあれがやはり神ながらに、何とはなしに出来上がっていきよると言う事ですね。只々神様のおかげを頂かなければならん。
神様のおかげを頂いておると言う事を思うんですけれども、そういう偉大なです大きな働きに、私共のいわば小さい力でもです。一人二人じゃないね。私はある御道の先生に話しておられます。あの後私に言われたんです。「大坪さん、あんたいっちょうんとおかげ頂いてから、もう自分の手続きの親教会ぐらいはですね。一人建立させてもらいなさい」と、言われたことがあります昔ね。私が沢山おかげを頂いて、そして私が一人ででも、建立させてもらうと言う様なおかげを頂きなさいという訳なんです。
で私は申しましたね。「そげなつば、例え出来たっちゃ私はしません」ちね。そういうものでは値打ちがない。沢山の人が助かり沢山の人が言うなら、信心の稽古をするという場においてです。それこそ沢山の縁にに繋がっておることの限りね。今度の御造営のことなんかは御造営が始まる時に、御本部にお願いの参拝をさせてもらった時に、奥城で頂きましたように、もう今度と言う今度は、椛目に縁のあるもう一切の氏子を使うと、神様は仰ったそうです。
そら本当に私共が忘れておるようなご信者さん方までが、やっぱりあれに寄与しておられると言う事ですね。ですからそう言う様な特別な働きと、そのお互いの力を合わせての、信心によって出来て行く訳でございましょうけれどもです。折おかげを頂いてから、皆さんは御用をさせて頂くのでございます。折角おかげを頂いておるのでございますからですね。例えば私は今日から石庭が始まっておりますしょう。これなんかは全然ここの信心の無い方なんです。
久富組みのご兄弟奥さんの兄弟が、まこれはもう素人玄人はだしですよね。もうそのまぁ趣味道楽で、勉強しておると言われる方が、どうでもいっちょ私がおかげ頂こうと言うてその、まぁ腰入れて下さっている訳なんですけれど、ちょうど始まっておりますね。ここでご神縁を頂いておる方達以外の人達までが、そういう風にまぁ協力を頂いておるわけなんですけれども。折角そうしたおかげを頂くのですからですね。私共が様々な意味合いにおいての奉仕をする。奉るなんですよね。
身体で御用を頂くことも奉るでしょう。お金でおかげ頂くことも奉るなんですけれども、せっかくならばです。それに思いを込められておらなければならん。いわゆる御の字のこの行が足らないと言う事。御奉ると言う事にならなければ駄目だとね。御奉ると言う事にならせて貰う時です。私は値打ちのある奉ると言う事になるのじゃないでしょうかね。恵みがいっぱいなんです、恵みがつう一杯なんですね。皆がやっぱりぎりぎりのおかげを頂いてるんです。でなかったら出来ませんもん。
ですから折角それだけの事が、出来ておるのでございますから、それだけに対するところの、それには中身がです、行でなからなければいけないとね。その御用に行が伴うておるだろうかと。そら一生懸命ほんなら、身体なら身体が御用頂いておりましてもですね。そのこと自体は行でありましてもですね。勿論それに信心の中身というものが、無からなければいけんと言うことなのですね。いくら僅かでもね。
例えば御用をさせて頂くならです。それに本当の私は御と言う字が入っておらなければ、ただの奉りになったんでは駄目だと。是はまぁ御造営抜きに致しましてもです。皆さんが朝晩ここへ信心に通うてみえる。十円のお賽銭を奉られるでも、百円のお初穂を奉られるでもね。そういう今度はそれなりのです、私は一つの行を行が込められてからのお供えである時に、そのお供えが生きてくるんじゃないかという風に、まぁ繁雄さんのお取次ぎの中から感じたんです。私と秋永先生が汗を出しておると言う事はですね。
いわばそこの中心である私。御造営の事である所の中心の委員長である所の秋永先生がです。やはりもう汗をかいておると言う事は、まぁ一生懸命だという意味じゃないでしょうか。それを聞かせて頂く御用がなされなきゃいけない。折角その御用をさせて頂くなら、どうぞ秋永先生じゃんじゃん一つやって下さい。もう出来るだけ立派なものにして下さいと言う様な、例えば願いが祈りがですね。私はあって初めてそれが汗を拭くと言う事になるのじゃないだろうかと思うね。
どうでも一つおかげを頂きましてですね。折角の奉るでございますから、常に御奉ると言う事にならなければならん。ところがそれにはお互いのその奉るにはです。この行が行人偏の行が絶っている、不足しておるんだと思う。と言う様な事を神様は指摘してくださっておるのじゃ無かろうかと言う風に、まぁ感じたんですけれどね。どうぞ今晩壮年部会で、まぁ色々そんな事を中心に、信心の共励がございましょうけれども、そういうところを焦点に共励なさったらどうでしょうか。
どうぞ。